そして担当医から言われるがままに放射線、抗がん剤、ホルモン剤などのがん治療を行い、なんとか4年命を長らえることができました。しかしある時からまったく効果がなくなり、1年前の7月「あと1ヶ月程度の命ですからご自宅で看とられてはいかがですか?」と病院から匙を投げられ、自宅近くの総合病院に転院、あと1ヶ月なら自宅で過ごさせてあげたいという家族の思いから自宅介護が始まりました。 足のむくみについては、心機能や腎機能などの臓器機能の低下や血流障害(これには、末梢の循環障害のほかに腹腔内のリンパ節転移などの圧迫による静脈還流の低下などが含まれます)、栄養状態が不良のため血液中の蛋白濃度が低下した場合など。 そして担当医から言われるがままに放射線、抗がん剤、ホルモン剤などのがん治療を行い、なんとか4年命を長らえることができました。しかしある時からまったく効果がなくなり、1年前の7月「あと1ヶ月程度の命ですからご自宅で看とられてはいかがです...続きを読む, 初めて記入させていただきます。 亡くなる前日、いえ当日の午前まで普通に話もし食事も取りました。 高校一年生と中学二年生の男子です。病気については自分の口から伝えました。予想どおり大きなショックを受けた様子です。 警察では「現代の医学では解明できない数十万人に一人の割合で起こる原因不詳の死。事故死でも窒息死でも無く、乳幼児突然死症候群とも分類しがたい。8ヶ月で亡くなってしまった事、それが娘さんの運命だったと思います。」そう言われました。 どうぞよろしくお願いします。, 義母が末期癌です。大腸から頚部のリンパ節に転移し、肺にも影がみられるそうです。 「入院してはどうかな?お父様にもおっしゃってみて!」と言われました。 警察の現場検証と司法解剖の結果、「原因不詳の死」でした。私は半狂乱で警察の方に「娘は私が寝かしつけました。だから私が殺したのも一緒です。なぜ私は裁かれないのですか?」そんなことを言ったように思います。殺したのか?と聞かれれば決してそんな事していません。 母が「あんたは良い会社に入っているね」と喜んでいるのを凄く苦々しく感じましたが、一方これで一緒に入られると嬉しかったです。 実はもう一つ、母には隠していた事がありました。3月一杯で10数年務めた会社を辞めていました。 かけがえのない娘の命をうばった「がん」は、数年後、妻の命も奪いました。妻は大腸がんでした。発覚したときは既に末期で、前向きな治療法はとれませんでした。妻が最期まで生き抜いた証をここに残します。はじめにこのブログ記事を読んでくれている人は、ど 先に昏睡状態になる場合もありますし、最後まで、意識がはっきりしている ただ気になるのは、そんなに弱ったお父さまを『今日明日にも』退院させようとすることが でも、ふとある時、よぎったのは 1週間後に上司に呼ばれ「検討したが、決定は変更できない」と言われ3月退職が決まりました。 子供を亡くしたとき、次の子を作る時期は早すぎないほうが良いと聞きます。 医療関係者ではないので、専門的なことはわかりませんが  本当に死の直前では、呼吸が見るからに弱弱しくなり、呼吸が止まることがどんどんと多くなりました。呼びかけると思い出したかのように呼吸を始める感じでしたが、まさに「息を引き取る」という表現そのままに死へ至りました。 残念ながら、現在の医学ではいったん減った進行癌の体重や体力を元に戻す方法は見つかっておらず、そのような時期には無駄に体力を減らさない(含む抗がん剤)がとても重要となります。, 栄養が少なくて痩せるのではなく、体が栄養を受け付けなくなって、栄養をとることがかえって体の負担になるため、食欲が減るのです。からだは栄養を受け付けないため、これまで蓄えた栄養を取り崩すことを行います。 高校生の長男はメールのほうがしっくりくるようなのでメール交換してます。 まずは、医師や看護師と相談してください。, 「人はがんでは死なない」という言葉があります。 私の願いは娘にただ会いたいということです。ママを事を許してくれる?パパとママの事好き?聞きたいことが、話したいことが沢山です。 今年の2月に主治医から「検査の結果、抗癌剤治療は中止し、今後は緩和ケアに移行したい」と説明を受けたと母が言いました。その時に母は非常に不安になり初めて弱気になりました。 あなたの笑顔が見たくて、がんばって産まれてきたってよ。 検診を受けたために結果が不正確で発見が遅れた人を無視していますよね・・・。少数派だから・・・というのは悲しい考え方です。 ありがとうございました。, ありがとうございます。 あらゆる箇所の骨に転移し、強い痛みも出てきました。 父は「そうだなぁ・・入院するかぁ~・・・」と答えました が止ることになり、肝性昏睡などの様々な症状を起こします。 少しでも心の準備ができればと思います。 今私は一年遅れの高校三年生です。 よろしくお願いします。, 「ディズニー 子供」に関するQ&A: ディズニー英語システムを買おうか迷ってます。 一歳8ヶ月の子供がいて、今はサンプルのDVDを聞いて、. 今まで質問させていただいておりました状況から180度変わってしまい、家族で困惑している状態で質問をさせてください。 おっしゃる通り親子で質問コーナーをしたいと思うのですが、現在の子供の精神状況ではフランクに話ができません。そのためにも、早く子供が死を受容してくれることをいのってます。 末期ガンを宣告されました。余命は長くて1年です。自分自身の覚悟はできましたが、子供の心が心配です。高校一年生と中学二年生の男子です。病気については自分の口から伝えました。予想どおり大きなショックを受けた様子です。時間が経 「お父さん!!痛い?」と聞くと「ううん!痛くないよ・・!」と  全体としては、「血中酸素濃度の低下」「急激な血圧の低下」「呼吸の力強さの低下」の順で危険度が増す感じでした。 本と言う形にとらわれず、何らかのものは残してあげたいと思っています。 納骨しろと言う人もおらず、住職さんも「幼くして亡くなった子はまだまだ両親のそばにいさせてあげて良いのですよ」と言ってくれました。  また、血中の酸素濃度が95%を下回ると危険な状態と言えるようです。逆に言うと、95%を上回るように酸素を送り込む必要があります。 ただ、父に呼ばれ嫁ぎ先から帰っ...続きを読む, ※各種外部サービスのアカウントをお持ちの方はこちらから簡単に登録できます。 今まで質問させていただいておりました状況から180度変わってしまい、家族で困惑している状態で質問をさせてください。 亡くなった我が子に会いたいですよね。 その日の朝は朝一番で近くの神社に行き、神主さんに祈祷をして頂きました。家族と病院に向かう途中「痛いのは胃だと言っていたので、最悪胃がんかも知れない、しかし、胃がんであれば手術が間に合うかもしれないし、今日はその説明かも知れない」とそれだけが頭の中にこだましていました。 私の会社は外資(アメリカ)で確かに成果に厳しく、社員の出入りは激しいです。自分自身良くこんな自分でも10年以上居れたなと思っていました。パフォーマンスの低下は精神的な影響は多分にあったと思います。会社からはパッケージの提案があり、私はそれを承諾しましたが、1つお願いをしました。 だけどある時、自分が心から楽しめるものを見つけ、その時からこんなんじゃダメだと思いました。 下血は消化管からの出血を示しますが、可能性としては原発巣からの出血が最...続きを読む, 何度もこちらで質問をさせていただいております。 急に食欲もなくなりました。 ですので、再発の不安と恐怖に悩まされながも、「うまく治療すれば大丈夫・・・」なんて、考え方を変えるようにしています。先生も「乳がんにはいい薬がたくさんある」とおっしゃっていました。 また、子供たちとの限られた時間のなかで有意義な過ごし方がありましたらご教授下さい。 高校一年になってすぐ、お父さんは病気と闘いながら死にました。 素敵なお母さんお父さんに愛されて、幸せな一生だったと思いますよ。 抗がん剤の治療は今月から始めたばかりで、 研修医は「こちらの点滴がモルヒネです!(モ)と書いておきますね!わかるように!」・・と。 腎臓の機能が低下すれば…… 末期症状は、医師や看護師がよく知っています。 その障害が引き起こす様々な症状によって、死にいたるのです。 いびきをかいて眠る時間が多くなり(昼夜逆転している...続きを読む, 各症状について、可能性のあることを書きます。 去年の乳腺専門病院での乳がん検診では異常なしと言われたのですが、 私はあなたの文を読んで、隣でお母さんをずっと支えていたあなたを心から尊敬します。 命にかかわることですし、遠慮せずにセカンドオピニオンを求めた方がいいと思います。 (告知された時は痛みや苦しみはまだなかったです) 1年でステージ4まで行くものなのでしょうか? 足のむくみについては、心機能や腎機能などの臓器機能の低下や血流障害(これには、末梢の循環障害のほかに腹腔内のリンパ節転移などの圧迫による静脈還流の低下などが含まれます)、栄養状態が不良のため血液中の蛋白濃度が低下した場合など。 実際近所のママ友は2000年初発2008年再発で、先頃亡くなりました。 昨年の10月に膵臓がんが見つかり、約半年の闘病をしていました。私は小さい時から母が大好きで、この世で絶対に起って欲しくないことは「母の死」でした。 本当に次に子供を授かる事が出来たら、乗り越えられますか? ガンを克服し会社にまで復活して頑張ってたのに… 回答に優劣は無いのですが、私が最も共感し感動したあなた様の回答をベストアンサーとさせていただきます。, ありがとうございます。 医師から、これ以上お腹にいさせたら浮腫みで死んでしまうと宣告されました。30週で帝王切開しました。 例えば「神奈川乳がん相談室」や「ティームオンコロジ―」などの掲示板などです。ここでは専門的なことが質問できます。 私は乳がんの手術後4年で再発し、抗がん剤治療が始まりました。 ただ痛みだけは取ってあげてください。という話をしたため、それ以降血液検査やレントゲンなどの検査を1ヶ月以上全くしていません。 妻とも交換日記を始めました。妻はまだショックと落ち込みが激しいですが、徐々に納得していってくれればと思います。 原因不明。お母さんのせいではない。周り...続きを読む, 45歳、乳がんで、見つかった時にはもうリンパと肝臓に転移していて、ステージ4と言われました。 今ではほんの少し動いただけでも息切れがひどく、時々咳き込んで嘔吐してしまいます。 今思えば自分は本当に幼かった その様な言葉は・・冗談でも出る内容とは違ったので、本当にビックリし、又、とてもショックでした。 2週間ほど前から下血が見られるようになり、たびたび輸血をおこなっています。食事はほとんど取れていません。薬を飲むために数口食べるのがやっとです。 お父さまにしても、いつ頃まで生きられそうだという、たとえ医者の言葉でも お客様の許可なしに外部サービスに投稿することはございませんのでご安心ください。, ディズニー英語システムを買おうか迷ってます。 一歳8ヶ月の子供がいて、今はサンプルのDVDを聞いて、. しないという選択肢もあります。 根本的な話ですが入院時一切の延命措置はしない、命を長らえるための治療は行わない。 貴重なご意見ありがとうございました。, ありがとうございます。 せん妄、抑うつ、不安等などの精神症状は癌の末期にはしばしば出現します。疼痛コントロールがうまくいっていないときは出現の頻度も当然高くなります。 そしてその死の手前には、命を賭けた闘病が待っています。 ついこの間、小さな仔犬でうちにきたと思っていたあの子が、あっという間に自分を追い越して、お爺ちゃんや、お婆ちゃんになっていく。 発見した時、助からないのは一目で分りました。 ということ。 そんないまを悲観しないでください。 先のことは分かりませんが、できるだけのことはしていますし、何より毎日を二人(と一匹)で楽しく過ごしています。今の医学では根治は難しいのかもしれませんが、このまま癌と共存しながら、あともう少し長く頑張っていれば、医学も発達して根治できる技術が生まれる日が来るかもしれない、と期待してます。 そして、4/17 夕方母は家族全員に看取られて、最後は私の手を握って、痛みに苦しみながら、荒い呼吸が段々と小さくなって呼吸が完全に停止し、永眠しました。 良い亡くなり方だったと思いました・・悲しさは逆に半減しました。 そして、その日のうちに葬儀会社が来て、葬式が終わり今日に至るのです。 骨転移は比較的進行が遅いですし、何よりもポジティブな気持ちでいると進...続きを読む, 4/17 夕方、最愛の母が永眠しました。 「苦しみが増しますか?」 親の死は女子には格好の話のネタなのは以前別の人がそうだったので黙ってもらってました。 晴海22歳の闘病日記 ~死ぬまで生きた~ 11月25日、僕は癌だと告知を受けました。長ければ半年もつそうです。やりたいこととかまだ、思いつかないけど、何か記録をつけたいと思いました。 母、そして家族と相談し、病院が斡旋する在宅看護を受けつつ、他の治療法を探す事にしました。 今までずっとお父さんを支えていたのはお母さんだったので、当時の私には一緒に支える方法を知りませんでした。 ありがとうございました。, ありがとうございます。 ちょっと痛みがあるので激しく体を動かしたり、掃除機のような重いものを運べないだけで、お出かけもしますし、海外旅行にも行きます。 3ヶ月後は自分の誕生日…… 私も自分の妊娠中の生活のあらゆる些細なことを責めました。あの時食べたあれがまずかったんじゃないか、あの時自分がしたあの行動のせいだったんじゃないかと… でももう心はギリギリで高二の夏に精神を病み学校へは行けなくなりました。 そして・・運良く内服の抗がん剤で時を過ごしました。 この状態をがん悪液質といいます。 ありがとうございました。, ありがとうございます。 「検診=無効=自分にとってかえってマイナスだった」(ただの被ばくにすぎなかった)ことになりました。 末期癌の母は現在ホスピスケアを受けています。 一番ビックリしたのは・・1ヶ月に1回外来で行く状況(慢性膵炎で)のある時・・。 突然として お父さまは厳しい状態のようですね。 入院後は足のむくみは取れたのですが、足がほとんど動かなくなり寝たきりになってしまいました。 ありがとうございました。, 「末期ガン」に関するQ&A: 末期がんでイタイイタイと泣いている人にどうしてモルヒネを打ってあげないのか?, 「スピリチュアル 意味」に関するQ&A: スピリチュアルな観点で・・・全ての縁が切れる時期, 「プレゼント 新入社員」に関するQ&A: LINEの未読スルー。何日で見切りをつけますか?, 「天国からの手紙」に関するQ&A: 私は元在日韓国人です。愚痴らせてください。, 「ディズニー パソコン」に関するQ&A: テプラとネームランドどちらがいいと思いますか?, 「ディズニー 本」に関するQ&A: ディズニー英語システムやその他の教材(長文です。), 末期癌~死ぬまでの状況を教えてください。  同じ病院にホスピスなどがあり。速やかに動かせるならいいかもしれませんが。 そうすればあなたが一人ではないことに気がつくでしょう。 同じ立場の者として、本当に良かったと思いました。 最近、闘病記のアクセスが増えてきていて 見て下さっている方がいると思うと嬉しい反面、 同じ立場の人がたくさんいるのかな?・・・と思うととても複雑な心境になります。 私のブログで少しでも何か皆さんに伝われば・・・と思います。 私は今年の初めに娘を突然亡くしました。前日まで元気でした。 ほんとに会いたいです。そして娘と話がしたい。たまにテレビで、第六感にすぐれている外国の方が出ていますが、もしあのように、亡くなった家族と話せる人がいたら、ぜひ我が家に来て欲しい。…なんてありもしない想像をしてしまいます。 では、なぜ、人はがんで死ぬのか? 私の実父は5年前に末期の前立腺がんが発覚し、その時点で余命1年と言われました。 肝臓にも転移しており既に手遅れでした。 当時私は私立の女子高に通っていました。 今思えば自分は本当に幼かった そしてどうか、ご主人も気持ちのままに、泣きたい時は泣いて欲しいと願っています。 その様な言葉は・・冗談でも出る内容とは違ったので、本当にビックリし、又...続きを読む, がんの末期において危険な状態の血圧の低下というのはいくつぐらいまで下がっていくと危険なのでしょう。また呼吸の浅さはどうやってわかるのですか。酸素吸入の目盛りを上げると血圧が上がるのはなぜですか?脈拍数の低下の非常に危険なボーダーラインというのはいくつなのでしょうか。他に油断を許さない危険な状態というのは何で判断するのか教えて下さい。, 兄が脳腫瘍で亡くなりましたが、そのときの状況でも。 お話。身につまされて泣いてしまいました。 下血は消化管からの出血を示しますが、可能性としては原発巣からの出血が最も考えられますが他の場所への転移、浸潤、潰瘍形成などによる出血の可能性もあります。  私の夫は「男は妻を支えなければならないのだ」と過剰に思い込んでしまっており、自分もお骨箱を抱き締めて泣きたいのを押さえ込んでいた為ほとんど泣かず、最近になって堰を切ったように号泣していました。私は夫の状態に気付けなかった事を悔やみ、以後「子供の親である立場として、夫婦は対等な立場なんだよ」と言葉をかけています。夫婦で肩を抱き合って泣くという事が大事だと気付かされました。質問者さまのご主人が、「自分が妻を支える為にも泣いてはいけない」と思わないよう願っています。 少しでも楽になるように、私たち家族は何をしてあげればよいのでしょうか。 最後にあなたは一人ではありません。 どうかご自分を情けないなんて思わないでください。 (でも私は・・この元気さが、いつか突然ひっくり返る瞬間が来ると思っていました) 目が離せない状態で、今動かすことがいいとは思えません。 母は久々に嬉しそうな顔をして「じゃ、お母さん頑張って食事取るね」と言いました。私は自分の部屋でわんわん泣きました。 いつかは伝わる、それが本当だと思います。しかし、余命を宣告された時点で、あれもしなければ、これもしなければと焦っていたのかもしれません。 そのため、根治はなくて、治療の目的は延命だといわれました。 医師から「手術室から(生きて)出られないかも知れない」と言われていた娘、生まれた姿は全身浮腫みでパンパンでした。でも3日間も生きてくれたんです。 質問者様の身内の方が、その患者さん・・という事で良いのですよね? 大場大 進行性乳がんのため闘病中であったタレントの小林麻央さんの訃報が流れ、多くの方がショックを受け、まだ悲しみに暮れているのではないでしょうか。病気が公になって以降、麻央さんが日々つづってきたブログから届くひとつひとつの声や言葉が、多くの人たちの共感を呼びました。 免疫療法や温熱療法など、いろいろなものがあるようで、詳しいことが知りたいです。 「意識は最後まであるものですか?」 この状態で、あとどのくらいと考えていればいいでしょうか。。。 お父さまが少しでも楽になられるよう祈っています。, 初めて記入させていただきます。 同じような経験をお持ちの方アドバイス頂けたら幸いです。 「胃ガンです!余命1年です」と言われて帰ってきたのです。 長文失礼しました。, はじめまして。 突然として ◎とにかく・・とにかく「痛い」「苦しい」「辛い」の状態を一番少なくして欲しい。 何時間にも及ぶ手術に集まる親戚、心配そうなお母さんの顔… (父は良く判らなかったけど・・私は延命治療・・と感じました) おかげで出生届も出せた。生前の写真も撮れた。ありがとう。呼吸が苦しい中よく頑張ってくれたねと娘を誇りに思っています。 長女の死を受け入れられず、お骨箱を抱っこしたり、はだけたおっぱいをあてたり、外出に一緒に連れていった事もありました。そんな私を、周囲は温かく見守ってくれ、気の済むようにさせてくれました。 長男はメールの方がいいようなのでメール交換しています。 しかし父は2ヶ月近く一切の飲食を行っていないため身体は骨と皮のみ。自力で立ち上がることも自分で歯を磨くことも顔を洗うこともできません。 昨年の10月に膵臓がんが見つかり、約半年の闘病をしていました。私は小さい時から母が大好きで、この世で絶対に起って欲しくないことは「母の死」でした。 いろいろな方からご親切に回答をいただきまして大変参考になりました。 質問者さまも、周りのかたの温かさに救われておられるとの事。 専門家なのでわかりませんが、私も2年に一度、マンモの検診を受けていましたが、結局自分で見つけるまでわかりませんでした。(ステージは違いますが・・・) がん 闘病記(現在進行形) (433) 女性・婦人科の病気 (420) 1型糖尿病(小児糖尿病) (407) ダウン症候群 (384) 潰瘍性大腸炎 (382) 病気 闘病記(現在進行形) (344) 子宮筋腫 (337) 子供・赤ちゃんの病気 … 4月頃から急に階段を転げ落ちる様に容態が悪くなってしまいました。 11ヶ月弱経った、ある日の朝・・父は「痛いんだ・・」とぽっつり言いました。 すぐ、送還して呼吸は取り戻しましたが、まもなく亡くなりました。 ちょっとした乳がん以外の相談なら「アスクドクターズ」(月ごとに安価だったと思います)などでも相談できます。他にもいろいろ出てくると思いますから、情報化社会を存分に利用していただきたいです。 死に至る病――うつ病闘病記⑥「死という選択肢の出現」 ... 子供の時から、何か妙な感じがしていた。 鍵を閉めること、ガスを止めること、特にトイレはいつ行きたくなるか、恐怖を覚える位だった。 父は厳しい人だった。 半年ほど、何もやる気がせずただ泣いたり、今の自分に失望したり… 栄養はいったん胃腸でエネルギーを消費して消化吸収され、肝臓でエネルギーを...続きを読む, どうしても理解できない。 私は過去に、1日200mlの電解質の点滴だけで2ヶ月間頑張られた方を担当したことがあります。 ですから・・医師に、とにかくお願いしてみてはいかがでしょうか? 「胃ガンです!余命1年です」と言われて帰ってきたのです。 世間で言われる症例数の多い有名な病院、イコール絶対ではない、という教訓も得ました。 残された時間は私自身の慰めや思い出作りのためではなく、残される妻と子供たちが生きていくための力と知恵を伝えることに注ぎたいと思います。 骨転移は比較的進行が遅いですし、何よりもポジティブな気持ちでいると進行も遅くなるそうですよ。乳がんの進行は、非常に個人差のあるもののようですから生存率何パーセントだとか、一般論は妻も全く気にしてません。 あれから約3年経ちましたが、記憶の中のお父さんと被って、久々に泣きました。 でも中学三年の秋、突然お母さんに涙目で一言  病院で血圧を測定する機械に触れましたが、上が60を切ると機械が電子音を出して緊急性を表していました。 わかりません。 結婚して5年、子供を授かることなく、当時私は35歳、夫39歳。 不妊治療の専門クリニックの説明会へ行きました。 その日、滅多に不調を訴えない病院嫌いな夫が、「お尻に違和感があるから病院へ行く」と言いだしました。後で知りましたが、かなりの痛みがあったようです。 足が動かなくなったことについては、廃用性の筋萎縮に伴う筋力の低下や神経障害(両側の場合は脊髄への転移などの可能性)に伴うものなど。 なんかだらだらと長くなってすみません。何が質問かと言うと私は母が死んでから、殆ど泣かないのです。がん告知を受けた時やがんセンターで余命を聞いた時はあれほど取り乱したのに今は何故か冷静なのです。一方、母の葬儀以降、毎日空虚で無気力になってしまい、無職だし、仕事探すとかしなければとは思うのですが、やる気が起きず、母の写真を見たりして過ごしています。 そうすれば・・自分達の辛さも同時に取れます!! ただ家族に何か残さなければの思いが私を駆り立ててくれているのだと思います。そんな意味では、絶望や恐怖から救ってくれているのかもしれません。あらためて家族に感謝してます。 会社が提示した退職は3月末でしたが、自分は母の状況の事を説明し、4月若しくは5月まで延期してくれないか。3月一杯で社員待遇は終わり、身分はバイトでも何で良いから、そして約束の時期がきたら必ず退社すると必死に食い下がりました。上司は一旦は懐柔を見せ、マネージャー会で検討させてくれと言ってきました。 熱については、一般的に感染に伴うものと癌による腫瘍熱の二つが最も考えられます。 「楽しいこと、嬉しいことがあったとき、ありがとうの気持ちとともに伝えてくれ」と言ってあります。 気管支のがん細胞が増殖して気管支を塞げば、窒息の危険があります。 けれど肺も育っていないため、呼吸(ガス交換)が出来ず、生後2日目の夜に亡くなりました。 ということです。 おっぱいをあげてから寝かしつけたのは私です。娘は寝かしつけた1,2時間後に亡くなったようです。深い眠りについてしまった私は、翌日起きるまで、娘の異変に気が付きませんでした。主人も良く眠っていると思ったようで、朝早く、起こさないようにそっと出勤したようです。 なんだか急に現実味がまして怖くなり、これからの人生の色々な思い出のなかにお父さんはあといくつ居られるのだろう…そう思うようになった。 というのも、私立は学費が高かったので、あまり成績はよくありませんでしたが、奨学金を目指し必死で頑張りました。 啓蒙の言葉を変えない限り、私はそのような運動にはこれからも参加しないつもりです。  こういった状態のとき、脈拍数は180と非常に高い数値を示していました。血圧や血中酸素濃度が低いにもかかわらず脈拍数が落ちてきたら非常に危険だと言えるでしょう。 がん 闘病記(永眠)ブログの人気ブログランキング、ブログ検索、最新記事表示が大人気のブログ総合サイト。ランキング参加者募集中です(無料)。 - 病気ブログ 母が死ぬくらいなら、自分が死にたい、死んだ後、精神的に耐えられないと思ってました。ですから、昨年夏頃から調子が悪く、行きつけの病院に行っても原因が分からないとの事で、地域の大病院で精密検査した結果、家族が先生に呼ばれ「病気と治療方針」について病院で説明がしたいと連絡を受けた時は、非常に嫌な予...続きを読む, はじめまして。 文章がうまくまとまっていなくてすみません。 何時間にも及ぶ手術に集まる親戚、心配そうなお母さんの顔… (ちょっと判らなかったので・・すいません!) 今はそうとは思えないかも知れませんが、質問主さまも、亡くなられたお嬢様に対し、心穏やかに感謝の気持ちを心に満たす事が出来る日が来ると思います。長い年月をかけるかも知れませんが、きっと訪れると思っています。 とにかく避けて進めて!・・と言いました。 私自身、いまだに自分が「乗り越えた」状態であるとは思えません(どういう状態になれば「乗り越えた」になるのか定義も曖昧ですし)。 今あなたの文章を読んで泣いてしまいました。 次女が生まれ、初めての子育てで頭がいっぱいになっている今、長女の事は大切な大切な思い出となって私の心の中にあります。 今後のこととなれば、母の場合は、厳しい状態ではありましたが 出てきた苦しみを押さえるということになります。 足が動かなくなったことについては、廃用性の筋萎縮に伴う筋力の低下や神経障害(両側の場合は脊髄への転移などの可能性)に伴うものなど。 医療関係者ではないので、専門的なことはわかりませんが では、なぜ、人はがんで死ぬのか? お察しします。 おっしゃるとおり子供と妻に手紙を書いています。妻と次男とは交換日記も始めました。 「痛い」「苦しい」「辛い」・・この3つをとにかく・・ 人によってものすごく差があるということです。 その障害が引き起こす様々な症状によって、死にいたるのです。 大切な人との別れから何を感じ、何を知るかが書かれた良書がありましたらご紹介下さい。 ちなみに、主人は決して、私の前では涙を見せません。一緒にいる時は一生懸命笑わせよう、楽しくしようとしてくれます。でも、私は泣いたり、時に酷い事を言ったり・・・悲しませてしまう。主人が泣いたのを見たのは2回だけです。 これがいつまで続くのかわかりませんが、なんとかやっていきます。 2週間ほど前から下血が見られるようになり、たびたび輸血をおこなっています。食事はほとんど取れていません。薬を飲むために数口食べるのがやっとです。 実は私も著書があります。原稿と言う形に仕上げるにはあまりにも時間が足りないです。 長くなってしまい申し訳ありません。 意識は最後まであるものですか? ここ数か月のいきなりの出来事でパニックです。 「パパ後3ヶ月しかもたないって…」 私は初めての子(長女)を生後2日で亡くしています。 長女が亡くなって間もなくは、頭の中は長女の事ばかり。家の事は何も手につかず、起こった出来事すべてを長女に結びつけ涙してばかり。 何が起きても不思議ではない、ということです。 人にはいつか自力で乗り越えなければならないとてつもなく高くて厚い壁が一度は来ると思います。 今後のこととなれば、母の場合は、厳しい状態ではありましたが けれど肺も育っていないため、呼吸(ガス交換)が出来ず、生後2日目の夜に亡くなりました。 飲食は本日よりリハビリの一環で口内洗浄用のスポンジに水を湿らせて口の中に水分を与えるということは始まりましたが、リハビリ師に「嚥下ができないため固形物を飲み食いできる状態ではない」と言われました。 看護もたいへんでしょうが、合間には体を休めて下さいね。 冷たく硬直した体を必死で温...続きを読む, お嬢様の、18ヶ月の人生はとても輝かしいものだった事と思います。 涙がボロボロと流れて止まりませんでした。医師からは具体的な余命は告げられませんでしたが、事の深刻さは分かりました。 母親の死についてどう説明したか ブログの中でも何回か書いておりますが、私には7歳になる息子がいます。 妻の死、息子からすると母親の死を息子にどう説明するか、これは親としてとても大きな問題だ … お父さまは厳しい状態のようですね。 私が目をそむけ、現実逃避しようとした現実から最後まで逃げなかったあなたは誰よりも強いと思います。 それから4年が過ぎました。放射線と抗がん剤治療の後、私のがんは消滅し(寛解  だから、その日はあなたに笑って欲しくて沖縄へ! 娘はあらゆる検査で異常を出しませんでした。医師は特発性と言っていました。私にはそれが、娘の優しさのように思えてきました。「誰のせいでもないんだよ、だからお母さん、自分を責めないで。」と言ってくれている気がしたんです。 三人家族で私がまだ精神的に幼いと両親は考えたのか、お父さんの病気のことをまだ受け止められないと思い病気のことは黙っていました。 ・「闘病記」…がんで親と死別した直後からの気持ち が記録された出版物とした.また,①著者が青年期 にがんで親を失った本人である,②インタビュー形 式で本人の直接の気持ちがわかるものの2つに限定 した.何人もの闘病記が1冊にまとめられた短編集 ですが、元気にしてますよ。自分ひとりで全ての家事ができるほどの状態ではありませんが、週に2回ほど親に家事を手伝ってもらいながらも、元気に毎日過ごしてます。ぜんぜん寝たきりなどではありません。 1年でステージ4まで行くものなのでしょうか? 自宅で疼痛のコントロールは何とかできてきていたのですが、足がむくんで歩くことができなくなり入院しました。 また尿について、尿道に管を通し直接尿を出していますが、ここ1週間ほどは尿パックには血液のみというくらい真っ赤な尿がたまっています。(麻薬投与により本人は痛みなどはありません)また尿量も入院時の半分以下になっています。 脳の機能が低下すれば…… 私のお父さんも膵臓ガンでした。 努力なしに得られるものなんてたかが知れてます。 私の父は・・ガンで亡くなりました。 この3つが「父」が私にゆっくりと、真剣に話してくれた希望でした。 そんな空気の中でさえ、事の異常に気付かず、盲腸の手術程度に思ってました。 退院後は病院にいるときよりも体調は良さそうでしたが、痛みを取るための麻薬が多いため、常に意味の分からないことを話し、幻覚もみていましたが、訪問介護の方がとても良くしてくださって、時々とんでもない大騒ぎを起こすことはありましたが、とりわけ穏やかに過ごすことができました。 私たち家族はどのような選択をしていけば良いのでしょうか? お願いして・・早く辛さを取ってあげて下さい!! ですが、その後苦しみ始め、すぐモルヒネを頼みましたが、その前に呼吸が停止したのです。 だけど、私が自分を責める事を亡くなった娘が望むのか?と考えるようになりました。 #闘病に関する一般一般の人気記事です。'|'ブログについてのおねがい'|'さびしい'|'子供2人の命を奪った小児がん'|'皆さまへ&ゴエママへ'|'363日頑張りましょう 以前のような素っ気ない返事ではなく息子なりに気を遣った返事が来るようになりました。 良かった・・と思いました。 くれぐれもお大事になさってください!!, 質問拝見しました!! #闘病記録に関する一般一般の人気記事です。'|'火葬後もガンが残っていたのだろうか…?'|'母が楽になることを望む'|'家に帰る 通夜と告別式の準備'|'母の49日まで'|'11月1日早朝、母が旅立つ 栄養が不足=飢餓状態とことなり、食欲がわかずに、筋肉が痩せてくることが特徴です。 夜一人部屋の中で色んな思いが溢れて泣きました。 娘の闘病記録は妻がつけていました。 ノートにして5冊くらいありました。 娘の逝去後も1冊分つけていたと記憶しています。 これらの闘病記録ノートは妻ががんで亡くなったとき、妻に持たせて火葬しました。 それが永眠した妻の希望でした。 今頃、天国で娘と読み返しているかもしれません。 そのため、手元にノートがないため、記憶を探りながらになります。 後から書き足す前提で書くので、ちょこちょこ読みに来てください。 ちぐはぐしていてもご了承くださいね。 妻の闘病記ブログはこちらです。 >… 今は少し心が疲れてるんです。 私は手術後の病理診断結果に不安をいだき、セカンドオピニオンを求めたところ、大きく診断結果が変わり、それによって治療方法まで変わってしまいました。 それと、妻のことを「お母さん」と呼んでいましたがこれからは子供が出来るまでのように互いの名前で呼び会うようにもし、子供達にも宣言しました。残りの時間、家族の役割としての呼び方ではなく、お互いの人格を尊重して呼び合うことにし、有意義に過ごしていきたいと思います。 「産まれて愛される娘」が彼女の望みではないのです。 私の父は・・ガンで亡くなりました。 尿はカテーテルを留置することになります。 「癌が成長してしまう」は、上記のようなことを患者さんやご家族が理解しにくいために昔から使われているロジックですが、実際には栄養点滴が百害あって延命の効果は全く見られないことが研究でおおよそ分かっています。 末期がんでただ死んでいくだけの患者がイタイイタイと泣いている。 とくに「死」を恐れている下の娘には死の直前の苦しむ姿を見せるのは避けたい . 末期ガンを宣告されました。余命は長くて1年です。自分自身の覚悟はできましたが、子供の心が心配です。 お父さんが死んだあと、家は母子家庭になり、お母さんは自分が守らなくてはと思うようになりました。 どうかたくさん、たくさん泣いて下さい。 私は「しばらくは仕方ないけど、何年経っても泣き声ばかり聞こえてくるのは辛いよ」 私のときは、お父さんが発病したのは、私が中学二年のときでした。 それは退職時期を1、2ヶ月遅らせて欲しいと言う事です。理由は、母は私が働く姿を喜んで居てくれていて、このタイミングで自分が無職になったら母に余計な精神的ストレスを与えてしまう、それで死期を早めるような事があっては絶対にならないと考えたからです。 医師から、これ以上お腹にいさせたら浮腫みで死んでしまうと宣告されました。30週で帝王切開しました。 質問がパッと目に入り、少し迷いましたが、 長文にお付き合いくださり、本当にありがとうございました。, 内容に不快感を持たれる方がいらっしゃいましたら、申しわけありません。予めお詫び致します。 その後の抗がん剤治療も順調に進み、やっとガンだったのかと知りました。 そこで、子供たちが自分の力で考え理解していくには読書が近道なのかとも思っています。 そのお陰か、高一は奨学金ももらえ、クラスでも1位の成績でした。 長女を亡くし2年経ち、次女が生まれ3ヶ月になる今、思い返してみると私は周りに恵まれたと思います。 自宅で疼痛のコントロールは何とかできてきていたのですが、足がむくんで歩くことができなくなり入院しました。 だから、たまには外にも出て、壊そうとする努力をしてください。 なぜ、急に退院させようとするのか真意を聞けるといいかもしれません。 質問がパッと目に入り、少し迷いましたが、 「娘さんはとっても笑顔が素敵でした! 理解できません。病状が静かに安定しているならまだしも、怒鳴ったり、呼吸が苦しそうなど ありがとうございました。, ありがとうございます。 池田光穂. 一般論や周りの人の意見は、気にしなくて良いのではないでしょうか。自分の気持ちが一番大事です。毎日の生活が楽しいのであれば、それがなにより一番大事な事だと思います。がんばってくださいね。私と妻もがんばります。, こんにちは、お元気に過ごしているとのこと、なによりです。私自身ではありませんが、妻が31才で同じように左乳房全摘し、3年半前から再発治療を受けています。最初は骨転移でしたが、1年ほど前に肝転移と肺転移が見つかっています。 退院/転院させることで、父を苦しめることになるのではないか?と思えて仕方がないのです。 この過程を経た今、私は確かに今の生活にしっかり目を向けて過ごす事が出来ている。という事だけははっきり申し上げられます。 (ちょっと判らなかったので・・すいません!) お察しします。 同じ病気にかかり、転移再発したという人にも出会い、ネットのブログでもよく見かけますが、私は転移再発しても、乳がんは10年以上延命できる時代になっているように感じています。 入院して主治医は同じですが・・いつも来てくれるのは研修医です! かならずよんで ね! 闘病記を書くことの意義. 優しいあなたの笑顔が好きと言ってましたよ。 5日後に亡くなりました・・眠るように気分良さそうに! 最後に、参考になるかは分かりませんが、風呂敷に包んだお骨箱を子供だと見抜いた方(お骨を抱えて行った沖縄旅行で出会った、初対面の方)から、後日に頂いた言葉を貼りますね。 これから母の面倒を見るのは私の役目なのでこれからどうなるのか不安です。 質問者さまのさぞお辛い気持ち、本当によくわかります。私も最近になってようやく、普通の精神状態になりましたが、しこりを見つけた3月から治療が始まる7月くらいまでは、何を見ても悲しく、テレビもを見ることも本も読むこともできずに泣いてばかりで、精神科にも通いました。 意識は朦朧としていることはありますが、1週間ほど前から母や子供である私達に涙を流しながら「今まで面倒を見てくれてありがとう」「夕べ親父と兄貴がきて(どちらも昨年亡くなっています)俺たちと一緒に暮らそうって言ってくれたんだ」と言ったりして、顔は今までの苦しみから解放されたかのような穏やかな表情をしておりました。 頭が真っ白でした。 やっとお父さんの死から立ち直ることができたんです。 冷たく硬直した体を必死で温めて、人工呼吸や心臓マッサージをしたり、動かしたらいけないのは分ってるのに、救急車が来るまで、何かせずにはいられませんでした。目の前にあるのは絶望でした。 もちろん、これからも自分の言葉で死の意味、別れの必然、人生の意義などを語っていくつもりですが、なにぶんにも時間が限られています。 ご自分の健康も大切ですから。 お腹の中で原因不明の難病にかかり、肺が育たず、しかし体はどんどん浮腫み続け。 母を肝臓がんで亡くし、現在私も乳がんの再発で治療しており それとも・・別の患者さんを、質問者様が見ていらして感じたこと?では無いですよね? あれから約3年経ちましたが、記憶の中のお父さんと被って、久々に泣きました。 もう一度高二からやり直すために転入しました。 一日、一日ごとにどんどん体力がなくなり弱くなっていきます。 肝臓のがんが増殖して、肝臓の機能が低下すれば、体内の様々な化...続きを読む, 内容に不快感を持たれる方がいらっしゃいましたら、申しわけありません。予めお詫び致します。 どうかあきらめずに、前向きな気持ちでがんばっていきましょう。 父と話がしたいし、生きていてくれることはとてもうれしく思います。 我が家はとりあえず思春期以上なのでどうなってもなるようになるでしょうが、小さなお子様を抱えた回答者様は私よりも、私の残される家族よりもさぞかし大変な事でしょう。 私たちの死亡率は、がんでない人も等しく、100%ですからね。, 4月に乳がんの告知を受け、5月に全摘出手術、現在ホルモン治療中です。 いろいろ自分で調べたところ97%の確率で死に至ることを理解しました。 私に笑いかけてくれました。 これは、モルヒネなどによりかなりコントロールできるようになってきました。 支えようとするどころか、部屋で一人で泣くことしか出来ませんでした。 何かお役に立てるかと思い、投稿しました。 そこで、4月の初めにセカンドオピニオンとして国立がんセンターに資料を提出し、見解を聞きました。当初、母も同行する予定でしたが、すでに家から外出するだけの体力も無くなっており、私一人で訪問しました。 それは、がんが増殖することで、臓器に様々な障害が起き、 複数の方からご紹介いただいた「葉っぱのフレディ」を家族に読ませました。なんとなくでは有りますが死にゆくことの道理を考え始めることが出来るようになったのではと思います。 離婚して離れた父が末期ガンを患い、もう長くないようです。僕はいまどうすればいいのでしょうか. お父さまのことさぞ心を痛めてらっしゃるでしょうね お気にさわったら申し訳ありません。 だけど日々暮らしていくうちに、やらなければいけない事(買い物、振込み、冠婚葬祭)に少しずつ目を向けられるようになり、涙の量が減っていき、生活に支障はなくなり。 つまり、体が利用できないのに栄養を口から又は点滴で投与しても、かえって体のエネルギーを浪費するだけに終わります。また、肝臓や腎臓の機能が落ちていることが多く、余った栄養を処理できずに肝性脳症や尿毒症になり、栄養点滴が原因で昏睡になることもあります。そこまで行かなくても、栄養点滴はむくみの原因となり、肺浮腫などで呼吸状態が悪化したり、腹水の増加につながるなど、いいことが全く亡いために、現在では行われなくなっているのです。 質問者様の身内の方が、その患者さん・・という事で良いのですよね? お役に立てたかどうかわかりません 壁は逃げれば自分についてきてどんどん高く厚くなります。 医師に私が伝えました。 家に帰ると母は「どうだった?何か他の治療とか紹介された?」と聞いてきました。 10月 14, 2018 / 【第1章】がん宣告〜奇跡, 子供のこと, 闘病記 [131]神頼み① 末期がん告知されて 327日 15コース目はじまりました。 でも、みるみる痩せていく体、何度も繰り返す嘔吐…色々なことが私には死が迫ってくるようで怖くて怖くて耳を塞ぎ目を閉じ、この世現実が夢だったらと願いました。 血圧は高い日もありますが平均60/40前後です。(あがっても70くらい) でも、すぐ亡くなって、お母さんが毎日悲しんでるのを見て辛かったみたいです。 >去年の乳腺専門病院での乳がん検診では異常なしと言われたのですが、 私のときは、お父さんが発病したのは、私が中学二年のときでした。 本当は産まれる前に寿命でしたが、 状況によりますが、オムツということも考えてください。 トリプルネガティブとか、特殊な悪性度の強いがんなのでしょうか? 最高のプレゼントをありがとう!と 次の子に亡くなった我が子を重ねず次の子として捉えられる自信がついた時が、次の子を作る時期なのだとおもいます。 別れまでの12日(18/18)肺がん闘病記 驚くほど短くて、長い時間でした。 ピーチーに妙な兆候が見えたのが3月15日。 ただ、確かに次女を授かってからは、より自分の今の生活を思いやれるようになりました。 そうしていくうちに、今後の生活に目を向けられるようになり、感情をコントロールできるようになり(小さい子を見ても激しく落ち込んだりしなくなる)。 私はというと、今は元気に生活し、仕事もしています。 鼻から酸素投与をしておりますが、本日より外す方向で投与量を少なくしているとのことでしたが、とても呼吸が苦しそうで、時々肩で呼吸をしています。 シルバーバーチや江原啓之氏は申し訳ありませんが子供には読ませたくありません。私は読んだことがあります。 頭の中が混乱しており、状況説明がうまくできていないと思いますが、どなたか教えてください。宜しくお願い致します。, 何度もこちらで質問をさせていただいております。 何かお役に立てるかと思い、投稿しました。 警察関係者、家族、友人誰一人として私を非難する人はいませんでした。非難されれば、それは、とても辛いことなので、感謝しなくてはいけないと思いますし、周りの温かさに随分救われました。なぜ自分は自分を許せないのでしょうね。自分を責める事で自分を守っているのでしょうか。かわいそうと思ってもらいたい、同情して欲しい・・・心の中ではそんな気持ちもあるような気がします。情けないですね。 ・・・そうだよなぁ!その日が来たんだな~・・と思い、父に話しました。 だからお父さんはお母さんの前でしか泣きません。 つらければすぐ追加が可能だそうだからと、提案すると母は聞いてくれました。 宜しくお願いします。, 4/17 夕方、最愛の母が永眠しました。 乳がんの闘病が始まってからというものの、すべてが治療が中心となり、子供も一緒に引っ越しを繰り返してきました。初発は日本に帰り、その後、一度無治療状態になった時に私の仕事先、子供の学校があるアメリカに帰ってきました。 2.脳転移による精神症状が最期まで出ることなく死にたい。人格が崩壊した様を子供たちには見せたくないので、精神症状が出るくらいなら、鎮静剤で眠らせてほしい 長男が率先してみんなで協力してお母さんを助けていくよと言ってくれました。私の死が決して悲惨な悲劇ではなく、また敗北でもないことを徐々に理解してきてくれています。 「有難う!・・そうだよね!痛そうだモンね・・お願いするよ!」と告げました。 誠に差し出がましいですが、あなた様のお父様もいつまでも鳴き声が聞こえてきたら辛いのではないかと思います。 一番ビックリしたのは・・1ヶ月に1回外来で行く状況(慢性膵炎で)のある時・・。 ついに「外科部長」に・・ このような病状なのですが、どういう状況にあると考えればいいのでしょうか。主治医の先生に聞いても的を得た答えを得られずにいます。 妻の死、息子からすると母親の死を息子にどう説明するか、これは親としてとても大きな問題だと思います。, 息子は生まれてから、立ち上がって歩けるようになるまで少し時間がかかったのですが、ようやっと立ち上がってヨチヨチ歩けるくらいの時に妻が乳がんんになり、子供の人生の大半は母親が病気の状態で育ってきました。, 息子も4歳、5歳になり、周りのお母さんとは違うことに少しづつ気づいてきます。家では髪の毛がないのに外ではカツラをつけてあるく、いつも病院で注射をしてそのあとは家でぐったりしている。, といっていました。息子はいつもそれを聞くと意味があまりわかっていないようで、何故か嬉しそうにニコニコしていました。, 話は戻りますが、こうして、息子は生まれてからいつもママが病気の状態で、それが当たり前に育ってきたため、なんとなく「いつか死んじゃうんだな」ってことはわかっていたようです。, ただちゃんと説明できたのはこの後に書きます病院の子供の心のケアを専門に対応しているチームの皆さんのおかげでした。, って聞かれたことがありました。私は不意を突かれたような気持になり、妻が緩和ケアに移ってからというものの、もちろん病院に泊まったりも一緒にしていましたが息子も飽きてしまうので度々親に預けるようになり完全に息子の心のケアを怠ってしまっていました。, 「いえ、特別何も、、、いろいろ病気が悪くなってきていることくらいは伝えています。」, 看護師さん:「もしよかったら子供の心のケアをしているチームが病院にあるので一度話してみてはいかがでしょうか?」, 私:「そんなのあるんですね。(昔から心のケアとか他人ができるもんじゃないだろ、とか思っていた私はあまりノリ気でありませんでした。)」, 私は、確かにこのままでは息子にちゃんと説明できないまま、妻が亡くなるのも後々子供にとっても、私と子供の関係にとっても良くないと考え、話でも聞いてみることにしました。, それが彼らのアドバイスでした。色々な親の考え方があると思いますが、彼らはそう言い切りました。, 今度その冊子を見つけたら詳細をブログでも書いていこうと思いますが、確か以下のように何話か、段階的に書かれていた記憶があります。, それをできるだけ1日1ストーリー読み聞かせる、そして最後になくたった時に最期のお別れの時のストーリーを読んであげるといった感じだったと思います。, 初めは息子も怖がって、読み聞かせようと思っても拒否していましたが、大切なことだから、と言い聞かせ何とか読んでいきました。, もちろんこんな内容平常心を保って読めるわけもなく、毎回涙ボロボロで顔をぐちゃぐちゃにしながら子供に読んであげました。, もちろん、この本と担当者の方のアドバイスは適格で子供に説明するという意味では凄い助けになってのですが、, 積極的に少し食べられるシャーベットを口に運んであげたり、歯磨きの手伝いをしてくれるようになりました。, 残り少ない時間をママと過ごして少しでもママのお手伝いをしてあげようという気持ちになってくれたのだと思います。, それからも専門チームの皆さんあ時折来てくれて、画用紙とペンを持ってきては何か妻の事を書かせてくれたり、最後の思い出を一緒に作って手伝ってくれました。, というかまだ7歳だしわかっていない部分もあるのかもしれませんが、子供は私が思っていた以上よりも、はるかにとても強いし適応能力があるなと思います。, 私はまだ、半年以上経ったいまでも、仕事は100%復帰できていませんし、やる気も起きません。家族皆で行ったレストラン、公園、一緒に食べた食べ物、写真を見るたびに落ち込み、悲しくなり、涙がでてきます。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。. また、心配や不安、疑問は、無料のネット相談を利用しました。 いびきをかいて眠る時間が多くなり(昼夜逆転している感じです)せん妄らしき意識障害もしばしばみられます。微熱も続いています。 私の1番の恐れは、もがき苦しむ最期を家族に見せてしまうのではないかと言うことです。 そこの先生の話では「データを見る限り、早ければ2週間後、長くても一ヶ月持たないでしょう」と言われました。私は久々に大泣きしました。 退院後も母は前向きに生きていました。それは恐らく、がんになっても何年も生きている人が居ると言う事や治療の効果を期待していたんだと思いますが、私はネットや本、がん患者の家族会に参加したりして聞こえてくる手術が適応出来なかった場合の末期すい臓がんの現実を知ると1年は持たないだろうとは思っていました。 お腹の中で原因不明の難病にかかり、肺が育たず、しかし体はどんどん浮腫み続け。 様々な症状の一つには、疼痛もあります。 自分でトイレにも行けなくなったらどうすればいいのですか? 質問者さまのさぞお辛い気持ち、本当によくわかります。私も最近になってようやく、普通の精神状態になりましたが、しこりを見つけた3月から治療が始まる7月くらいまでは、何を見ても悲しく、テレビもを見ることも本も読むこともできずに泣いてばかりで、精神科にも通いました。 どんなにしても悔いは残るでしょうけど、なるべく少なくなるようにしたいです。 私は身近な人で死んだ人がいなかったので、お父さんの死ということがあまり上手く理解できませんでした。 転移があるため手術はできない。 精神的に辛い時は、精神腫瘍科なども利用すると心が楽になると思います。 私の実父は5年前に末期の前立腺がんが発覚し、その時点で余命1年と言われました。 母を肝臓がんで亡くし、現在私も乳がんの再発で治療しており 貴重な体験、本当に身に染みます。 入院中は飲食は全くできず、意識は朦朧しており、せん妄がかなり強く出ており、1日1日弱っていく父をみんなで手を握りながら穏やかに過ごせるように努力をしてきました。 更に命が短くなる事は覚悟していましたし・・でも「痛く、辛く、苦しくない!!!!!!」 その時点で私は会社には完全に愛想が尽きていたので、すぐにパッケージにサインし、4月からは「会社からは家族の状況を相談したら介護休暇と言うのをもらえた、だから、当分は自分が母さんの身の回りの世話をする」と家族に説明しました。母は喜んでいました。 ただ、父に呼ばれ嫁ぎ先から帰って一晩泊まった次の朝、 軽くなるということはないでしょう。 残酷な言い方ですが、何らかの理由で昏睡状態になった場合、 そして次女を妊娠すると、今まで長女一色だった頭は長女:次女=50:50になり、妊娠生活を健康に過ごすことに頭を使えるようになり。 感情が消えたみたいです。抜け殻の様な感じです。 可哀想だとか惨めだと思われたくなくて、学校ではバカみたいにテンションをあげてましたが、家では、部屋で泣きながら勉強してました。 長々と・・しかも体験談だけのくだらないお答えかもしれませんが書かせて頂きました!! 栄養はいったん胃腸でエネルギーを消費して消化吸収され、肝臓でエネルギーを消費して体で利用できるように組み立てられます。ここまではエネルギーになりません。しかし、その後利用できなければ、再びエネルギーを消費して肝臓で分解され、腎臓から排出しなければなりません。 場合もあります。 宜しくお願いします。, 「人はがんでは死なない」という言葉があります。 苦しみが増しますか?  がんが特別な毒素を出すわけではありません。 だから、いまのこの自分をどうか否定しないであげてください。 治療は、検診を受けた病院ではないと推測していますが、経済的に可能なら、他病院でのセカンドオピニオンを受けることをお勧めします。 私も、家族友人みな温かい言葉をかけてくれ、責める人は誰もいませんでした。 ただ、その時は現実には母は生きているし、同じ家に住んで話もしたり、TVを一緒に見たりしていたので絶望と言う気持ちではなかったのです。ただ、今年の正月の時に家族が集った時に全員で迎える正月は最後だろうなと思って凄く寂しくなりました。 長々書きましたが、何が言いたいかというと、がん患者の場合どのような早さで病状が進むのか、 こんな私が言うのはなんですが、今はあなたのやりたいように、好きなだけ休ませてあげてください。 しかし、医師から出てきた言葉は「膵臓にがんがある、進行がんでステージ4a、がん摘出手術は出来ない、バイパス手術も出来ない、ステント挿入手術をしたいがそれも成功するか分からない」との事でした。母はその時点でも毎日の様に嘔吐していましたので、元々小太りだった体型はかなり痩せてしまっておりました。 そして・・「そろそろモルヒネ打ちませんか?・・その分色々あると思いますがどうでしょう?」・・と。