[注 10] ¨1 イギリス宗教関係法令集 (平成22å¹´3月発行)(2.17mb) [注 9] ]。) [43], ただし安楽死など道徳に関わる分野おいてはカトリックなどの宗教保守派の影響が大きい[44]。, 2歳から5歳までの就学前教育ののち、6歳から16歳までの10年間が無償の初等教育と前期中等教育期間となり、6歳から11歳までの5年間がエコール・プリメール(小学校)、その後4年間がコレージュ(中学校)となる。前期中等教育の後3年間のリセ(高等学校)による後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。2003年の推計によると、15歳以上の国民の識字率は99%[45]である。コミュニケーションを重視した国語教育が、小学校での最重要の教育目標になってもいる。しかし、フランスの教育制度が民衆に等しく手厚いことを必ずしも意味しない。, リセ卒業時に行われるバカロレアに合格すれば任意の総合大学・単科大学へ入学できる。ただし、グランゼコールを含む一部のエリート大学はこの限りでない。代表的な高等教育機関としてはパリ大学(1211年)、モンペリエ大学(1289年)、エクス=マルセイユ大学(1609年)、ストラスブール大学(1631年)、リヨン大学(1809年)、パリ・カトリック大学、エコール・ノルマル、エコール・ポリテクニーク、パリ国立高等鉱業学校、エコール・サントラルなどが挙げられる。, フランスの公立学校では、10人に1人がいじめの被害にあっているとされ、いじめが大きな社会問題となっている。しかしフランスは、ほかのヨーロッパ諸国より、いじめ対策が遅れているとされる[46]。, フランス文学は、そのほんの一部をピックアップしただけでも、たとえば13世紀ころから宮廷風恋愛のテーマとしたアレゴリー詩『薔薇物語』、16世紀にはモラリストのモンテーニュによる哲学的な自伝『随想録』、17世紀にはラシーヌやモリエールの演劇作品、18世紀には啓蒙思想家のヴォルテール、ルソー、ディドロなどによる諸作品、19世紀にはロマン主義のスタンダール、バルザック、デュマ、ヴィクトル・ユーゴー、20世紀には実存主義のカミュやサルトル、人間心理を極めたプルースト、はたまた世界大戦下で「愛の意味」や「人生の意味」を語ったサン=テグジュペリ ...といった具合で、ここでは挙げきれないほどに豊穣であり、しかも思想的にも深みがあり、フランス文学は世界各国の文学の中でもトップレベルだと評価されており、フランス文学の奥深さは結果としてフランスにおける音楽や絵画の作家らにも影響を与え、それらの作品に深みを与えるのに貢献している。, またフランスは音楽、特にクラシック音楽も盛んである。特に19世紀末20世紀にかけての「フランス6人組」やフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルらはフランス音楽を頂点にまで押し上げた。またフランスは、ポーランド人のショパン、ドイツ人のグルック、オッフェンバック、ジャコモ・マイアベーアがパリを拠点とするなど、多くの外国の才能が活躍する場を提供した。20世紀以降では情緒を巧みに歌い上げたシャンソンや、あるいは(イギリスやアメリカの音楽にも影響を受けた)フランス発のポピュラーミュージックも世界中で愛され(たとえばミシェル・ポルナレフなど)、しばしば世界中でヒットチャートの上位に上がった。, フランスの絵画は、数世紀の間欧州世界をリードする地位にあると言われており、たとえば19世紀には印象派、象徴派、ポスト印象派、ジャポニスムが隆盛を迎え、エドゥアール・マネ、クロード・モネ、ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャンらが活躍し、20世紀初頭にはフォーヴィスム(野獣派)、キュビスム、アール・ヌーヴォー、アール・デコが隆盛を迎え、ジョルジュ・ブラックやアンリ・マティスらが活躍し、現在も多くの諸外国の芸術家やクリエイターを引きつけ続けている。, またフランスでは「パン、フロマージュ(=チーズ)、ヴァン(=ワイン)」といった フランス人にとって日々の最も基本的な食品とみなされている3食品があり、これらは基本的な食材のみを用いてシンプルな加工でできているにもかかわらず それらだけでも(フランスの豊穣な大地や、実直な農業従事者たちや、その結果生まれた食材の素材的な良さのおかげもあって、また穀類、乳製品、そして果汁からできた酒、という旨みと酸味の絶妙な組み合わせや栄養バランスのおかげもあって)それだけでもすでに相当な美味であり、食べる人々に幸福をもたらしてくれる組み合わせである。さらにはフランスでは宮廷文化とその農産物の豊かさを背景にして食文化も発達してきた歴史があり、近・現代のシェフが趣向をこらし 磨きをかけた技で調理したフランス料理は、しばしば「世界の三大料理のひとつ」とされ、ガストロノミー(いわば「食通道」)も発達し、さらにミシュランガイドのおかげでパリだけでなくフランスの地方(田舎)にある優れた料理店にもスポットライトが当たるようになり、フランス国内だけでなく世界中の食通たちがフランスのシェフらの料理を目当てにフランス各地を訪れている。, 中世においては騎士道を歌い上げる叙事詩が文学の主流を担い、11世紀に『ローランの歌』が成立した。, 12世紀ころには騎士道物語が流行し、クレティアン・ド・トロワ(1135?-1190? まず現代のフランスにおける宗教の現状ついてざっと紹介します。 今日フランス人の多数の宗教が、カトリック教であることには変わりません。フランス人全体の64パーセントの人が、自分がカトリック教徒であると考えています。しかし毎日曜日に教会へ行ってミサに参加するような敬虔な信者は5パーセントにすぎません。 フランス人全体の6パー … 小学校による宗教授業の背景についてまず、結論から言いますと、私は道徳教育の一環として宗教教育は必要だと感じています。その理由は後から述べることとして、その前になぜフランスの小学校で宗教の授業があるのか?まずは、その背景からご説明したい … [注 8] ®åˆ¥ã‚’経験することでフランス人平均よりも困難な状況に ある。 フランス共和国(フランスきょうわこく、仏: République française)、通称フランス(仏: France)は、西ヨーロッパ、カリブ、太平洋、およびインド洋に位置する共和制国家。首都はパリ。, フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。この他世界各地に海外地域および領土を有する。, 正式名称はフランス語で、République française(レピュブリク・フランセーズ)。通称、France(フランス)。略称、FR。, 日本語の表記は、フランス共和国。通称、フランス。政体の第五共和政に因んでフランス第五共和国と呼ばれる場合もある。また、漢字による当て字で、仏蘭西(旧字体:佛蘭西)、法蘭西(中国語表記由来)などと表記することもあり、仏(佛)と略されることが多い。英語表記はFrance、国民・形容詞はFrench。, 国名の France は、11世紀の『ローランの歌』においてまではさかのぼって存在が資料的に確認できるが、そこで意味されている France はフランク王国のことである。一方で987年に始まるフランス王国[1] に、France という名前が用いられているが、これは後代がそのように名づけているのであって、その時代に France という国名の存在を認定できるわけではない。また中世のフランス王は REX FRANCUS と署名している。France は中世ヨーロッパに存在したフランク王国に由来すると言われる。その証左に、歴代フランス王の代数もフランク王国の王から数えている(ルイ1世とルイ16世を参照)。作家の佐藤賢一は、ヴェルダン条約でフランク王国が西フランク、中フランク、東フランクに3分割され、中フランクは消滅し、東フランクは神聖ローマ皇帝を称したため、フランク王を名乗るものは西フランク王のみとなり、フランクだけで西フランクを指すようになった、と説明している[2]。ドイツ語では、直訳すればフランク王国となる Frankreich(フランクライヒ)を未だにフランスの呼称として用いている。これと区別するために、ドイツ語でフランク王国は Frankenreich(フランケンライヒ)と呼んでいる。多くの言語ではこのフランク王国由来の呼称を用いている[注 3]。, フランスの歴史は現代世界史の幹である。ブルボン朝最盛期のフランスはヨーロッパ最大の人口を有し、ヨーロッパの政治・経済・文化に絶大な影響力を持った。フランス語は外交の舞台での共通語となった。現在は国連事務局作業言語である。フランスは17世紀以降1960年代まで、大英帝国に次ぐ広大な海外植民地帝国を有した。1919年から1939年、フランスの面積は最大となり(12,347,000km2)、世界の陸地の8.6%を占めた。, 現在のフランスに相当する地域は、紀元前1世紀まではマッシリア(現・マルセイユ)などの地中海沿岸のギリシャ人の植民都市を除くと、ケルト人が住む土地であり、古代ローマ人はこの地をガリア(ゴール)と呼んでいた。ゴールに住むケルト人はドルイドを軸に自然を信仰する独自の文化体系を持っていたが、政治的には統一されていなかった。, 紀元前219年に始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴ帝国の将軍ハンニバルが南フランスを抜けてローマ共和国の本拠地だったイタリア半島へ侵攻したが、ゴールには大きな影響を及ぼさなかった。, その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方のガリア・ナルボネンシスが属州とされた。紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍・カエサルは紀元前58年にゴール北部に侵攻した(ガリア戦争)。ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクスは果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴールを占領し、ローマの属州とした。ゴールはいくつかの属州に分割された。そしてラティフンディウムが作られた。, 5世紀になるとゲルマン系諸集団が東方から侵入し、ガリアを占領して諸王国を建国した。, 476年に西ローマ帝国が滅びると、ゲルマン人の一部族であるフランク族のクローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始めた。508年にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族はキリスト教とラテン文化を受け入れた。メロヴィング朝のあとはピピン3世がカロリング朝を打ち立て、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエ間の戦いで破り、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させた。, シャルルマーニュ(カール大帝)はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ね、現在のフランスのみならず、イベリア半島北部からイタリア半島北部・パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュのもとでヨーロッパは平静を取り戻し、カロリング・ルネサンスが興った。800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられた。シャルルマーニュの没後、フランク王国は3つに分裂した(西フランク王国・中フランク王国・東フランク王国)。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの見解によると、これらはそれぞれ現在のフランス・イタリア・ドイツの基礎となった。また、この時期に古フランス語の形成が始まった。, 987年、西フランク王国が断絶し、パリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選出されてフランス王国が成立した。カペー家に始まるカペー朝、そしてヴァロワ朝とブルボン朝は、戦争と家領相続を通じて次第に国を統一していった。 ンボルを禁止する法案が成立し、フランス内外のムスリムや … ]、数多くのNBA選手を輩出し、中でもNBA史上初の外国人選手のファイナルMVP受賞者となったトニー・パーカーが有名。, 国内にはLNBと呼ばれるプロバスケットボールリーグを持つ。代表はこれまでにオリンピック出場6回、世界選手権出場5回を誇る。2000年シドニーオリンピックでは銀メダル獲得。決勝戦でドリームチームIVと呼ばれたアメリカをあと一歩の所まで追い詰め、それまでの「アメリカ圧勝」の図式を崩した。この苦戦を機に、「ドリームチーム」という名前は使用されなくなった。, バスケットボール欧州選手権(通称「ユーロバスケット」)では、2005年に銅メダル獲得。代表チームの課題は、NBA選手が多いため、オフシーズンの代表招集に主力が全員揃わない傾向にある。代表チームのニックネームは「Les Bleus」。, ただし興味を持っているのは主に移民系の黒人たちで、フランスの主流の白人は、概して、バスケットボールに対しては関心は低い, オイルショックが発生した1974年は2.4%だった満15歳以上男女の失業率は第2次オイルショックがあった1979年には5.9%まで上昇、1990年代前半までは10%前後の失業率となっていた。, ミシュランのキャラクターはタイヤを纏ったミイラのようだが、実際に合成ゴムのブナは大戦で軍服に使われた。, 特に悪質な団体を取り締まるために、通称「反セクト法」(「アブピカール法」「セクト弾圧法」など数多くの俗称で呼ばれた。正確な日本語訳は「人権及び基本的自由を侵害するセクト的運動の防止及び取り締まりを強化する2001年6月12日の法律第2001-504号」)を制定し、被害者救済を確立するために判例を積み重ね、犯罪の未然防止や活動内容の監視のために各県に専門部署を設置したり、「子どもへの教育」と称して洗脳やひどい教育が行われていないか監視するための部門を設置したりするなど、フランス政府の「セクト対策」は多岐にわたる。裁判の判例や法律の制定を通じて、セクト被害やその救済という概念を刑法体系内に作り上げようとしている。, フランスの「セクト対策」に対しては、(フランス政府の外では)疑問視する声も多い。「人種差別」「宗教差別」「人権無視」「報道の自由の侵害」と指摘する声や、フランスは「人権の祖国」であったはずなのに、少数派に対し不寛容になってしまったフランス政府の実態に対する疑問も提起されている。, このセクト対策を「宗教弾圧」とする意見もある。宗教に干渉しているのでなく、フランス政府は、できるだけ犯罪行為に絞るように取り締まっている。ただしフランス政府は単純な取り締まりだけを考えているわけでもない。報告書は「セクトは大衆の需要を満たし大衆の望むものを提供しているからこそ繁栄しているのであり、単純に弾圧できるものではない」としている。, フランス国内でも、セクト対策は宗教弾圧になりうる危険性があり、ライシテの根幹にもかかわる問題のために、多数の議論を巻き起こし、この過程で「進化するライシテ」「新しいライシテ」などの概念が示された。, 特にカレームの考案したピエス・モンテーは、現代の日本の洋風結婚式における豪華なウェディングケーキなどの形で一般的に普及している。, 関谷一彦、細身和志、山上浩嗣編著『はじめて学ぶフランス──関西学院大学講義「総合コースフランス研究」より』、関西学院大学出版会、2004年10月。 p.54, 山田文比古『フランスの外交力』集英社(集英社新書) 2005 pp.129-130, Centre national de documentation pédagogique, "2011, ANNÉE DES OUTRE-MER", 平野千果子『フランス植民地主義の歴史 奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』人文書院 2002/02 0pp.65-pp.81,pp.236-pp251, World Economic Outlook Database, October 2020, Hundred Years' War: Joan of Arc and the Siege of Orléans, In France, a War of Memories Over Memories of War, フランスの行革担当大臣から生の声を聞く 公務員の数は520万人、「公務員が多くて行革が大変だ, GDP, PPP (current international $) | Data | Table, World Health Organization Assesses the World's Health Systems, World Population Prospects – The 2006 Revision, Table C1 – Value of agricultural imports and exports, FAO Statistical Yearbook 2007-2008, http://www.oecd.org/els/soc/expenditure.htm, Insee Premiere n°1118 - Bilan demographique 2006 : un excedent naturel record, http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/130828.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フランス&oldid=81045326. このページはフランス政府のセクト(カルト)対策に関わる行政資料の紹介と日本語訳を行っています。またフランスのセクト対策は日本でも紹介されたので、それら記事の紹介もします。 ここの資料を読む利点を記載しておきます。 1. フランスの宗教対 … フランスやイギリスで10年ほど暮らしました。 1209年にアルビジョア十字軍が開始され、異端とされたオクシタニア(現・南フランス)のカタリ派を殲滅した。その結果、カタリ派とともに独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた[3]。1337年から、フランスはイングランドとの百年戦争(1337年 - 1453年)を戦っている[4]。, 1534年、ジャック・カルティエがガスペ半島に十字架を建て、ヌーベルフランスを宣言した。1562年、宗教摩擦からユグノー戦争が30年以上も続いたが、1598年、ナントの勅令を発して内戦に終止符を打った。, 1643年ルイ14世が即位した。1673年にフランス東インド会社がポンディシェリを取得した。1685年にはフォンテーヌブローの勅令によりナントの勅令を廃止した。, 1748年、シャルル・ド・モンテスキューが『法の精神』を発表した。1762年、ジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』を発表した。フランスはアメリカ・アフリカ・アジアに広大な海外領土を獲得していたが、1756年からの七年戦争でフランスは孤立し、1763年のパリ条約で北米植民地戦争のフレンチ・インディアン戦争が終結し、ヌーベルフランスはイギリスによる植民地時代に移った。1769年、フランス東インド会社からフランス領インド(フランス語版、英語版)が成立した。特に重要だったカリブ海の植民地のサン=ドマングにおいては、奴隷貿易によって導入された黒人奴隷を酷使したサトウキビやコーヒーのプランテーションが築かれ、莫大な歳入がフランスにもたらされた。, 1789年にフランス革命が起きて王政は倒れた。1791年にハイチ革命が勃発。1793年にルイ16世とマリー・アントワネットが処刑され、同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治の犠牲となった[5]。, 1799年にブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握って第1統領となった。やがてナポレオンは皇帝に即位して第一帝政(1804年 - 1814年)を開き、ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパを圧倒し、この戦争で数百万人が犠牲となった[6]。1803年にフランス領ルイジアナをアメリカに売却。1804年にハイチ革命が終わり、ハイチ帝国が一応の独立を果した。1815年、ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れた。, フランスは王政復古したが、王の権力は憲法に制約された。1848年、2月革命で第二共和政となった。1851年12月2日のクーデター(フランス語版、英語版)が起き、1852年12月2日にルイ・ナポレオン(ナポレオン3世、ナポレオン・ボナパルトの甥)が第二帝政を開いた。ナポレオン3世はボナパルティズム的手法[注 4]で内政を固めた。中国・インドシナ半島・メキシコ・日本などへ積極的に出兵した(アロー戦争・コーチシナ戦争(英語版)・メキシコ出兵・下関戦争)。1870年、普仏戦争に敗北しルイ・ナポレオンは退位した。パリ・コミューンは鎮圧され、第三共和政が打ち立てられた。, フランスはトンキン戦争(英語版)(1882年)と清仏戦争(1884年 - 1885年)に勝利した。ここにフランス領インドシナ(1887年 - 1954年)が成立した。国内ではブーランジェ将軍事件(1886年 - 1889年)が起きた。1893年、シャムと仏泰戦争(英語版)。1894年にはドレフュス事件が勃発した。アフリカ分割の時代には、1895年にフランス領西アフリカ(モーリタニア・セネガル・マリ共和国・ギニア・コートジボワール・ニジェール・ブルキナファソ・ベナン)が成立した。1894年に露仏同盟を締結した。1905年、フランスがモロッコに進出しドイツが反発した(第一次モロッコ事件)。1910年にフランス領赤道アフリカ(ガボン・コンゴ共和国・中央アフリカ共和国・チャド)が成立した。1913年、アルザス・ロレーヌ地方(エルザス州・ロートリンゲン州)でツァーベルン事件が起こった。, フランスは第一次世界大戦と第二次世界大戦の主戦場となっている。第一次世界大戦では140万人が犠牲となっており[7]、このときは領土の一部が占領されただけにもかかわらず、全土を占領された第二次世界大戦よりも多くの犠牲を出した。, 第二次世界大戦ではドイツの電撃戦に敗れた。第三共和政は崩壊し、フィリップ・ペタンを国家元首とするヴィシー政権が成立した。フランス本国はドイツによって北部、のちに全土が占領された。一方でシャルル・ド・ゴール率いる自由フランスが連合国についた。1944年にフランス共和国臨時政府が帰還し、全土を奪還した。, 戦後、第三のそれと変わらないフランス第四共和政が成立した。1946年、フランス委任統治領シリアからシリア共和国(英語版)が独立した。1951年、欧州石炭鉄鋼共同体を西ドイツと結成した。フランスはインドシナ支配権を回復するため第一次インドシナ戦争に臨み、1954年にディエンビエンフーの戦い(3 - 5月)でベトミンに大敗を喫した。11月1日にフランス領インド(英語版)を返還したが(ポンディシェリ連邦直轄領)、その同日にアルジェリア戦争へ突入した。アルジェリア植民地の維持の是非と、植民者の帰還[8]をめぐって国論が割れ、内戦になりかけた。1956年にはモロッコとチュニジアが独立を達成した。この脱植民地化時代、フランス領インドシナやマグリブのみならず、ブラックアフリカの植民地においても独立運動が進んだ。, 1958年6月1日、ド・ゴールが第四共和制の首相となった。1959年1月8日に強力な大統領権限を含んだ第五共和政が成立した。第五共和政初代大統領となったド・ゴールは、国内の統一を維持しながら戦争終結へ踏み出した。1958年10月2日のギニア独立を嚆矢として、アフリカの年こと1960年にほぼすべてのアフリカ植民地が独立した。第二次世界大戦後の冷戦構造のなかでフランスは自由主義陣営(西側)に属し、北大西洋条約機構の原加盟国でもある。しかしド・ゴールはヨーロッパの自主性を主張してアメリカと距離を置いた独自路線をとった。その米ソと並ぶ第三極を目指した政治姿勢はド・ゴール主義と呼ばれ、核兵器保有もその一環である。1960年にはトゥアレグが居住するサハラ砂漠で核実験を強行した。1962年にアルジェリア戦争の和平交渉を妥結し、アルジェリアは独立した。1966年、フランスは北大西洋条約機構を正式脱退した。, 直接選挙で選ばれる大統領(任期5年、2002年以前は7年)には、シャルル・ド・ゴールのときから首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられている。これは、立法府である議会より行政権の方が強い体制である。, また、大統領が任命する首相は、大統領にも議会にも責任を負っており、ともに行政権を持つ(半大統領制)。このため、大統領の所属政党と議会の多数派勢力が異なる場合、大統領自身が所属していない議会多数派の人物を首相に任命することがある。この状態をコアビタシオンと呼ぶ。こうした場合、大統領が外交を、首相が内政を担当するのが慣例となっているが、両者が対立し政権が不安定になることもある。, 議会は二院制を採用し、上院にあたる元老院と、下院にあたる国民議会がある。元老院は間接選挙で選出され、任期は6年で3年ごとに半数を改選される。国民議会は直接選挙で選出され、投票に際して小選挙区制と二回投票制が定められている。優先権は国民議会にあり、元老院は諮問機関としての色彩が強い。, 主要政党としては、共和国前進(中道)、共和党(中道右派)、国民連合(極右)、社会党(中道左派)、労働者の闘争(極左)がある。, 歴史ある中央集権と官僚主義はフランスの政治体制を代表してきた。スウェーデンには遠く及ばないが、労働人口に対する公務員の比率は21.6%に達する[9]。世界でも屈指の強固さを持つ官僚主義に裏打ちされたその社会構造は、しばしば批判的な意味をこめて「官僚天国」「役人王国」などと形容される[10]。, 地方政治の現場においては、市町村長職こそフランス国籍保有者に限定されているが、市町村議員に関しては欧州連合諸国の出身者に地方議員の被選挙権を認めている。2020年1月時点で、約50万人いる地方議員うち外国人議員数は2500人近くとなっていた。しかし一方で2020年2月にイギリスの欧州連合離脱があり、フランス国内で活動してきたイギリス人議員が被選挙権を喪失。その数は約3分の1に相当する757人にのぼった[11]。, フランスの国防政策は1959年にシャルル・ド・ゴール政権が制定した「国防組織法」によって運営されている。大統領が最高司令官であり、その指導のもとに内閣委員会が国防政策、将官の任免、総動員令や戒厳の宣布などの意思決定機関として機能する。フランス革命からの徴兵制を廃止して志願制を採用した。2011年の軍事支出は625億ドルと、標準的な軍事費を維持している。, フランス軍は陸軍、空軍、海軍および憲兵からなり、2002年の総兵力は44万人のうち、陸軍17万人、空軍7万人、海軍5.6万人、憲兵9.8万人、その他機関4万人であった。国外駐在兵力は約3万人で、うち太平洋地区の海外県(植民地)に約2万人、アフリカに6,500人、国際連合など国際組織の指揮下に9,000人がいる。また核兵器を保有しており、海軍の弾道ミサイル搭載原子力潜水艦により運用される。現在もフランス外人部隊8個連隊を保有する。南仏オーバニュに司令部を置き、南仏各地も駐屯、コルシカやポリネシアにも一部が駐屯する。2002年12月から西アフリカのコートジボワールに外人部隊2,500人が派遣され、戦闘状態にある。, 2013年に開始されたマリ共和国への軍事介入において、進展の遅れから軍の兵站が不十分である指摘する報道が行われた。国防予算の50%が軍人への給与や退職金などに費やされ、残りの予算も空軍機や空母など主力兵器の運用・導入が優先される予算配分に原因があると見られている[12]。徴兵制廃止によって兵員の不足も発生しており、常備軍23万名の中で即時派兵が可能な戦力は3万名に留まっている。, フランス陸軍は地上作戦司令部、補給司令部、9個作戦旅団、2個補給旅団からなる。主要装備は戦車834輌、装甲車4,950輌、各種火砲802門、ヘリコプター498機である。, フランス海軍は戦略作戦司令部と海上、対潜、掃海、潜水艦などの専門作戦司令部からなる。主要装備は弾道ミサイル搭載原子力潜水艦4隻、攻撃型原子力潜水艦6隻、原子力空母1隻、ヘリ空母1隻、ミサイル駆逐艦3隻、駆逐艦9隻、フリゲート20隻などである。, フランス空軍は6個攻撃戦闘機中隊、7個戦闘機中隊、2個偵察中隊、14個輸送機中隊、5個ヘリコプター中隊、2個電子戦中隊からなり、主要装備は作戦機433機、早期警戒管制機4機、偵察機4機、空中給油機45機、輸送機131機などである。, フランス国家憲兵隊は以前は国防省に属していたが、現在は軍籍は国防省に残置したうえで内務省に属し、警察業務を担当する。, フランスは国際連合の原加盟国であり、国際連合安全保障理事会常任理事国の一国である。多くの国際機関の加盟国でもあり、G7、北大西洋条約機構(NATO)、経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)、フランコフォニー国際機関がこれに該当する。また、欧州連合原加盟国かつ指導国でもある。, フランスは2003年のイラク戦争に終始反対したが、第二次世界大戦中も英米と一歩離れた独自外交を展開している。第五共和制成立後も冷戦構造のなかでフランスの影響力を保つため、ソビエト連邦と提携したり、NATOの軍事機構から脱退したり、1973年からフランス・アフリカ首脳会議を主催したりしている。また、フランスは建国以来ベルギーと密接な関係がある。, 大戦直後、西ドイツとは和解しともに欧州統合の旗手となった。冷戦終結後は欧州統合を深化し、欧州連合の主要国として存在感を高めている。ドイツとは1999年1月のユーロ導入を含む欧州統合に中心的役割を果たしてきた。しかし、2005年の欧州憲法批准は国民投票で拒否された。2008年2月にこれを継承するリスボン条約が議会の承認を得ている。, フランスは旧植民地との間にフランス共同体を結成している。アフリカの旧植民地に対しては、暴動や内戦の際に親仏政権を維持するため軍事介入することもある。現在もセネガルやジブチにはフランス軍の軍事基地がある。実際に、1994年のルワンダ紛争や、2002年のコートジボワール内戦にも介入している。1970年代以降の軍事介入の件数は30件以上にも及ぶ[13]。2012年からマリ北部紛争に介入している。こうしたフランスの姿勢を新植民地主義であると批判する声もある。またケベック州の仲介により、フランス語地域のある国とはフランコフォニー国際機関を結成した。, 欧州連合加盟各国は北朝鮮と国交がある。しかし、フランスは2016年8月現在も日本やアメリカと同様に北朝鮮と国交がない。, 2015年1月、パリでシャルリーエブド本社やユダヤ教徒向け食料品店が襲撃され、11月には大規模な同時多発テロで仏全土に非常事態宣言がなされるなど、イスラム過激派との間で緊張が高まっている[14]。, フランスとイギリスは歴史上錯綜した関係を持ってきた。イングランドは、ノルマン・コンクエストを通じてフランス語を母語とし、フランス王国の公爵を兼ねる王に統治されることとなった。こうして、中世のイングランド王は同時にフランス王国の大貴族であり、その立場においてはフランス王の臣下であるという関係が長く続いた。なおかつアンジュー帝国とも呼ばれたプランタジネット朝のイングランド王は、王権の確立が遅れていたカペー朝のフランス王をしのぐ巨大な所領をフランス王国内に所持し、フランス王の勢力を圧倒した。またイングランド王家とフランス王家の姻戚関係も深かった。, こうした経緯から、中世のイングランド王家とフランス王家は、フランス王国における覇権をめぐって幾度となく抗争を繰り返すこととなった。ジャンヌ・ダルクが活躍したことで有名な百年戦争は特に長引いた抗争であり、イングランド王家が最終的にフランス王国内の基盤を喪失するにまで至った。この長期の戦争を通じてフランス人とイギリス人の間に、のちの国民国家の創生につながる近代的な国民意識の母体となるものが胚胎したともいわれる。またフランス第一帝政時代の対仏大同盟は、イギリスが盟主的存在であった。, 英語での生きている牛(cow)もしくは生きている豚(pig)と、死んだあとの食肉としての牛(beef)と豚(pork)の呼び方が異なる理由は、ノルマン・コンクエストによってイギリスを支配したノルマン系のイングランド貴族の母語がフランス語であり、被支配者であるアングロ・サクソン系の農民の育てた家畜は生きている間はアングロ・サクソン系の語彙で呼ばれ、肉となって調理され、貴族の食卓に上るとフランス語系の語彙で呼ばれるようになったのが由来である。すなわち、ビーフとポークは本来フランス語である(ただし英語とフランス語のビーフ・ポークの綴りは異なる)。, 政治的には1904年の英仏協商締結以来、基本的には友好関係にある。第一次世界大戦をともに戦い、第二次世界大戦では敗北寸前となったフランスに対し、イギリスから連合国家形成の提案がなされたこともある。戦後はスエズ危機のように両国が協調した行動を取ることもあるが、イラク戦争に対する対応のように両国の対応が分かれることもある。, 日本とフランスの公式な関係が始まったのは19世紀後半の幕末期以降である。1858年10月9日に、フランスから日本に外交使節団長として派遣されたジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵によって、日本と最初の修好通商条約が当時の日本の幕府があった江戸で調印された。, 明治維新後には西園寺公望をはじめとする政治家、大山巌らの軍人、黒田清輝らといった芸術家らが続々とフランスに留学している。1872年(明治5年)から翌年にかけては、岩倉使節団がフランスを訪問しており、当時のパリの様子が『米欧回覧実記』に詳しく記されている(一部スケッチ入り)[15]。日本は民法・刑法改正にギュスターヴ・エミール・ボアソナード、陸軍にフランス陸軍の教官を招聘し、強い影響を受けた。, 義和団の乱では共同歩調を取ったが、日清戦争後にフランスは、日本に遼東半島を返還するよう働きかける三国干渉を行っている。第一次世界大戦においては連合国として戦い、1919年のパリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成している。そのあとの第二次世界大戦においては、ヴィシー政権成立前後の時期に、日本はフランス領インドシナへの進駐を要求し、北部インドシナは日本の占領下に置かれた(仏印進駐)。ヴィシー政権は植民地に対する支配力を失い、1940年のタイ・フランス領インドシナ紛争では日本の仲介により東京条約を締結し、タイとの戦争を終結させた。1941年には南部仏印への進駐も行われたが、これは日米交渉において決定的な破局点となった。真珠湾攻撃後、自由フランスは連合国の一員として日本に宣戦したが、日本軍とは交戦していない。1945年、インドシナで明号作戦によって、仏印軍は日本軍に攻撃され、フランスの植民地政府機構は日本軍の支配下に置かれた。日本側はフランスとは戦争関係にないという建前をとり続けたが、降伏文書には臨時政府のフランス代表も署名している。, 1951年、日本国との平和条約締結により日仏関係は正常化した。以降の関係はおおむね良好である。, 日本では、フランスはファッションや美術、料理など、文化的に高い評価を受ける国である。毎年多数の日本人観光客が高級ブランドや美術館巡り、グルメツアーなどを目的にフランスを訪れている。また、音楽、美術、料理などを学ぶためにフランスに渡る日本人も多く、2018年時点で在仏日本人は44,000人におよび[16]、これはヨーロッパ圏ではイギリス、ドイツに次ぐ多さである[16]。